遺族でもなんでもない人

先日有馬温泉へ旅行に行った帰り、JR三田駅から自宅に帰ろうと駅に立ち寄ったのだが、その三田駅がある路線というのがJR福知山線である。それがなんだと考えるかも知れないが、この路線は全国的にも有名であるはずだ。なぜならこの福知山線は2005年4月に、死者107名、負傷者562名を出した戦後最悪とも言われる列車の脱線事故の当該路線だからである。16年前の事故であるが、自分が立ち寄った三田駅の改札には、その脱線事故をJRが謝罪する掲示が、ガラスケースに入れられて綺麗なまま保存されていた。

 

16年前といえば自分は5歳だ。記憶が定着し始めるギリギリの年齢であったために僅かながらも当時の状況は覚えている。朝、幼稚園に向かおうと支度をしていると、ブラウン管のテレビに電車がぐちゃぐちゃになった映像が流れていた。母親に「すごい?」と聞くと「こんなん見たことないわ」という返事が返ってきたのを覚えている。

 

当時幼い自分は遠い場所で発生した事故として他人事のように考えていたが、三田駅で謝罪文を見た後、興味を惹かれネットで調べてみると実は事故現場は自宅から自転車で1時間とかからない場所であったことが判明したのだ。しかもその福知山線は大学のサークル活動でも使用するテニスコートのすぐ横を通っており、自分の生活のすぐ近くにあった。そして以前大学の授業でこの事故を扱ったことがあり、事故の跡地が慰霊施設になっていること、一般客も立ち入ることができることを知っていた。それならば実際に行って見ようと思い立ち、今日その場所へと足を運んできたのだ。

 

 

事故の詳細は書かないが、大まかに説明すると、通勤ラッシュでかなりの人数の乗客が乗車している快速電車が、制限速度を40キロ以上オーバーしたまま時速120kmで急カーブに接近し、そのまま曲がりきれずに沿道のマンションに激突し、前述の死者、負傷者を出したというものである。

 

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写真を見ても明らかなように、現場は筆舌に尽くし難い状況で、乗客の様子は、四肢を切断する人、顔面の皮膚が捲れ上がる人、マンションの鉄柱に串刺しになる人、重なった乗客の下敷きになり内臓が破裂する人、眼球が飛び出して潰れ、温泉卵をちらしたような状態になる人など、普通に生活していればまずみることのない状態であった。原因は、運転士が手前の伊丹駅で停車位置をオーバーランし、電車が遅れたために、その遅れを取り戻そうと速度を出しすぎたのが原因とされている。(当時運転ミスをすると日勤教育と呼ばれるいじめのような仕打ちを会社側が課していたため。)

 

そんな現場を訪れると当時のマンションの下位層がそのまま保存されており、地下には資料館が併設されていた。剥がれたレンガや崩れたコンクリートが目に入ったが、個人的な感想としてはあれだけの速度で激突した割にはそこまでの被害にはなっていないなという感じだった。先に資料館を見学していると、後から若い女性が入ってきた。肌寒い春前の夕方の割に、薄手の服装で、髪は長く手にピクニックで使うような鞄を持っている。今日は月命日でもないため、遺族ではないだろうなと思って横目で見ていたが、その女性は壁面の資料は軽く見る程度で、あまり時間をかけずに出て行ってしまった。何をしにきたのかよくわからないなと思いつつも、一通りじっくり見て周り、18時過ぎの薄暗い地上に出た。

 

 

地上へ出て事故現場の方へ目を向けると、慰霊のモニュメントの前に先程の女性がいた。少し離れているのではっきりとは見えなかったが、石碑を長い間じっと見つめて棒立ちしていた。その後ろ姿を見たとき、自分は直感的に「ああ、遺族なんだな」と感じた。薄暗い夕焼けに照らされながら広場の真ん中で1人たつその姿に哀愁を感じ、独特の雰囲気を醸し出しているが故に近づくことすら出来なかった。

 

 

 

 

 

しばらく経つと彼女が出て行ったため、その石碑まで歩いていき、刻まれた文字を見た。そこには亡くなった方々の名前が刻まれていた。50音順に並んでおり、並びからして親子だと推察できるものもある。ここに刻まれている名前の一つ一つに自分と同じような人生があり、多くの知り合いがいたはずだ。死者数は107名であるため、その知り合いとなると1万人はこの事故に関わっているだろう。先程の女性もその中のはずだ。

 

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そんな状況に身を置いて自分の気持ちがよく分からなくなったまま、事故現場を見に行くと、今度はスーツを着た30代くらいの若い男性がいた。おそらく仕事帰りだろう。かなり仕事ができそうな見た目である。だが、そんな見た目とは裏腹に、その男性は事故現場の前に立って地面を見つめていた。この人もおそらく遺族であろう。その姿を見たとき説明など必要ないと思った。一本道であったために引き返したり立ち止まったりすると不自然極まりなかったので今度はその男性に近づいた。すると死角で隠れていた現場には沢山の花束、ジュース、酒、果物、千羽鶴などが置かれていた。

 

 

今日は3月15日。事故日は4月25日。先ほどの通り今日は何の日でもないはずだ。にも関わらず、花束はどれ一つ枯れることなく生き生きとしており、果物も腐ったりしてはいない。酒やジュースもそうである。毎日誰かがやってきてお供えしているのであろう。「この場所では時が止まっている」そう感じさせる現場だった。16年前、自分が今立っているこの目の前で107名が死んだ。ひしひしと伝わる残酷な現実に足がすくんだ。

 

 

自分はこの事故に直接関係はなかったが、もしかしたら未来で出会うはずの人がこの事故で亡くなっていたかもしれない。自分の先生、先輩、仕事仲間、後輩、この事故がなければそういう関係性になった人がいたかもしれない。あるいは過去であった人の誰か、これから先出会う人の誰かがこの事故の遺族かもしれない。刻まれた名前を見ていると自分も無関係ではないような気がした。若い男性はそのまま帰って行ったが、その後ろ姿を見た時自然と頭を下げていた。

 

 

JR福知山線脱線事故。今年で16年目を迎える。この事故自体を知らない人は最高で現在高校生だ。あの現場を見てここで起こった事実を風化させてはならないと感じた。自分もここに来るまではネットで調べただけで、事故の衝撃や、惨状をみて、やばいなというような感情しか抱かなかったが、実際に現場や遺族を見ると別の思いが込み上げてきた。こればかりは実際に行ってみないとわからない。だからこの感情を忘れないようにブログに残すことにする。

この事故で今も癒えることのない悲しみを背負って暮らしている人たちがいるという事実を知った時、我々にできることは忘れないようにその事実を心に留めておくことではないだろうか。小中高と過ごしてきたが、これはなにもこの事故だけではなく、戦争、災害、事件、さまざまな辛い現実を耳にしたり、知る機会があったはずだ。それらの事柄についても同様のことが言える。知って、心に留めておくことで、人との接し方や人の気持ちを察することもできるはずである。遺族を思いやることができるのは、遺族でもなんでもない人たちだ。

 

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