俺は人が平等に創られていると信じたい

 金持ち。貧乏。イケメン。ブサイク。頭脳明晰。バカ。 世の中は確実に上と下に分かれている。福沢諭吉は、天は人の上に人を創らず、人の下に人を創らず、その差は学問により生じる。と言ったが彼の眼は節穴だったのだろうか。こんな差は学問でどうこうできるレベルではない。生物全体を見渡すと、同じ種でこれほど差が広がっている動物はおそらく人間だけだ。他の動物の群れにも順序は存在すれど、一方が世の中のすべてを手に入れるような絶大な権力を持ち、一方が道端で物乞いをしなければ生きていけないなどという状態はあり得ない。人が平等だと信じることは、弱者が厳然たる事実に押しつぶされないよう、心を保つための綺麗事だ。そう思っていた。周りを見れば確実に自分の上位互換が存在し、すべてのステータスで負けていると感じる人間など山ほど見てきた。ではそのような人間は必要ないのだろうか。無価値なのだろうか。

 

 

 

ところでいきなりだが、この世の中心はどこに位置しているのだろう。政治家?アメリカ?物理法則?神? きっとどれでもない。言い方は悪いが、政治家が全員死のうが、アメリカが滅亡しようが、物理法則のパラダイムが転換しようが、神の怒りに触れようが、多分どうにかなる。生きていける。では何が消滅したときこの世の中は終わるのだろうか。そう考えたときおのずと答えは一つ、そう自分自身だ。この世の中心は自分自身だ。今この文章を読んでいる瞬間にあなたが死んだとき、もうその時点であなたにとっての世は消え去る。結局のところ、まず世の中があって、その中に自分が住んでいるのではなく、まず自分があってその中に世の中が広がっている。そう言えるのではないだろうか。

 

 

 

とすると人はみな自分の世界を持っている。それならばあなたが関わった相手の世界にはあなたが存在している。記憶の話をしているのではない。その相手がたとえあなたのことを覚えていなかったとしても、相手の世界にあなたが入り込んだことで、あなたはその人を良くも悪くも形成する要素となったのだ。そう考えたとき、その相手にとってそのスペースはあなた以外の人間でよかったのだろうか。その空いたスペースにあなたより金を持っている人間、あなたより顔がいい人間、あなたより頭のいい人間をぶち込めばよかったのだろうか。そうすれば結果はより良い方向に向かったのだろうか。そんなことは誰にもわからない。ただ確実にいえることはその相手の一部にはまぎれもなくあなたがいるということだ。

 

 

 

 

そう、自分の代わりは自分しかいないのだ。どれだけ努力し力を注いでも自分以外の人間が自分になることはできない。人の価値を決めるのは目に見えやすい、金、権力、顔、頭脳、エトセトラではない。その人はその人だという目には見えない唯一性だ。俺はキムタクになれないが、キムタクもまた俺にはなれないというのは馬鹿げているようで結構的を得たことを言っている。

 

 

しかし悲しいことに複雑な社会で生きていくにはある程度目に見える形で能力を身につけなければならなくなった。そして人々はいつしかその見えやすい部分にのみ価値を置き、他は二の次にしている感が否めなくなっている。だが、物事の本質は表面上に存在しないのはお約束だ。星の王子様でも述べられているように、大切なものは目には見えない。上辺のことで劣等感を感じるのは馬鹿らしいと思う。

 

 

 

周りを見渡せば自分の上位互換でありふれている。しかし自分自身はここにしか存在しない。天は人の上に人を創らず、人の下に人を創らず。人はみな誰にも取って代わられることのない平等な存在として創られていると俺は信じたい。